人間にとって、不安や苦しみはデフォルト状態?
人は誰しも心の中に、さまざまな不安や苦しみを抱えながら生きているものです。
不安、ストレス、怒り、孤独、虚無、自責から自らを解放する科学的メソッドとして、昨年出版とともに話題となった書籍『無〜最高の状態』では、これを「デフォルトモードネットワーク=DMN」と表現し、人間存在の前提として、生きていく上で不安や苦しみがあるのは当たり前である、と言っています。
たとえば、仏教では有名な言葉「四苦八苦」がありますが、このうち「生老病死」を除く他の四つの苦しみのうち三つは、自他の「関係性」に由来するものである、と言われています。
関係性の中で生まれる苦しみとは、愛する人と別れる苦しみ、嫌で憎い人と出会う苦しみ、求めるものが手に入らない苦しみといったものであり、それらは人間が生きている限り、自然と心に湧いてくるもので決して止まることはない、と伝えられています。
そして、人間存在がそういうものであるとすれば、そもそもあらゆる苦しみの根源である「自己」を変容させ、超越させることこそが最も本質的な解決策である、という教えにつながっているのでしょう。
しかし一方で、「自己」という存在への執着や防衛・闘争本能は、三次元の世界、この物理空間の中で生きるために肉体を持った人間が自分の身を守るため、生存するために、必要性があって生まれてきたものでもあります。
それはたとえば、狩猟社会の中で外敵からの危険を察知して自然に発動するシステムであり、生存ツールとして進化してきた心の作用が「不安」「恐れ」「心配」=苦である、と捉えてみるとわかりやすいでしょう。
このようにして、外側の世界に対して「自己」と「他者」とを分けることで、自分を守り続けてきたのが人間の歴史である、と見ることもできます。
また、そうした中で「自己とは何か?」という人間存在への問いが古今東西、現在に至るまで、哲学や宗教、科学の思索の中心にあり、さまざまな理論を生み出す背景にもなってきました。
つまり、この本質的なテーマが、長い人類の歴史の中でずっと横たわってきた、とも言えると思います。
「自己」と「他者」を分けることが、苦しみの元に
人間の歴史の中で「自己」の探求をめぐる旅がずっと続いている理由の背景には、
自分を守るはずだった心のシステムである「自己」と「他者」の分別が、同時に自分を苦しめ、また他者を苦しめる根本原因にもなってしまっている
という問題があります。
「他者」から「自己」を守る心のシステムが発動することによって、自分にとって思わしくない出来事を事前に察知したりできるのはメリットである一方、それは裏を返せば「周りを信用していない」「他人は自分に危険をもたらす存在である」と認識しているということでもあります。
そして、そういった心理は程度の差こそあれ誰の中にも存在しているので、一見するとそうやって「自己」を守っているようでいて、心理的にも物理的にも逆に、周りとの関係性が切り離されてしまうようなことが起こってきます。
さらに、その行き詰まりがますます人を苦しくさせてしまう、という悪循環に陥ってしまうこともあるでしょう。そうなると、そこから抜け出すことは決して容易ではありません。
また、競争によって他者より優位に立とうとする思いが膨らんでしまうと、そこに深い分断が生まれ、排除や支配といった人間社会の負の側面が一気に噴出してしまうこともあるかも知れません。
とくに「自己」を明確に持ち、主義主張をはっきりさせる個人主義の強い文化圏では、その弊害がわかりやすく現れることもあります。
近年「多様性と包摂」を重視する傾向が世界的に広がっているのは、分断や対立を超えること、さらにその奥には、自己と他者という関係性そのものを改めて捉え直すことの意味、という深いテーマが横たわっているような気がしてなりません。
「自己」はあるように見えて、実は幻想なのかもしれない
さて、このように「自己」と「他者」の関係性をめぐる様々な議論の中で、そもそも自分を守るためにできた「自己という概念自体は、実は幻想なのではないか?」という捉え方が、近年、脳科学や物理学、心理学など、様々な分野で議論されるようになってきました。
「自己」は人間という生命体の生存システムという面では必要性があって進化してきたけれど、自己認識の本質を追求していくと、そもそも「自己」という実体は存在していないのではないか?という問いに繋がるからです。
そしてこの時考えられるのが、二つの方向性に広がるであろう議論の様子です。
一つ目は、冒頭で記した仏教のように、身体的、物理的な意味での「自己」を超えて、自他非分離の世界、あるいはより大いなる自己へと気づきを広げる道。
それからもう一つは、自分が認識する「自己」は、固定した一つの人格としての存在ではなく、たとえば仕事、家族、友人、親子などの多様な関係性の中で、その都度相対的に生まれてくるものだと考える道です。
この二つは仏教思想の中心の言葉で言うなら、前者は「空の思想」、後者は「縁起の思想」というところにつながってくるでしょう。
とくに実生活に活かしやすい現実的な視点で言うと、縁起の関係性の中で生じる思い込み、幻想からの解放というのが、実用的な知恵やメソッドとして増えていると思います。
たとえば、縁起の関係性の中で生まれる様々なペルソナや「自己の感情」などを、ジャッジせずにそのまま受け入れ受け流したり、自分の対人関係を客観的に俯瞰してメタ認知するなど、関係性による苦しみから自由になれる知恵に触れることは、人生の大きなプラスになるでしょう。
「全ては一つ」という平穏な心の境地を掴むために
それから、もう一つの道として考えられるのが、「自己」そのものの存在感覚や他者との境界線を無化していくことで、いわば大いなる自己への全体性を取り戻していくという方法です。
この流れは今着実に広がっていて、代表的なものだと、たとえばビジネスシーンでもすっかり定着しつつある、マインドフルネスや瞑想といった方法が挙げられます。
古神道に伝わる瞑想法の一つ「鎮魂」も、もちろんその一つに数えられます。
これらを実践することで、最高にリラックスした状態に近づいていくことができます。そして、深い瞑想状態に入れば入るほど、「自己」の感覚に変化が生まれてくることが実感できるようになるでしょう。
それは、自他の境界線が薄れることによって自分を脅かす存在はいないという意識状態に近づくということであり、さらにその先には、全体と一体になる感覚が待っています。
その時に心に生まれてくる安心感や、心から満たされるという意識状態は、自分の心をマネジメントするということで、より良く生きる=ウェルビーイングの観点からも、今後ますます重要になってくるでしょう。
自己と他者を分けて考える現象から離れて、もともと「全ての存在は本来、一つにつながっていた」ということを思い出すためにも、ぜひ日常の中で、瞑想や鎮魂法を実践してみることをおすすめします。
まとめ
現代社会で日々生きていれば、仕事のこと、生活や人生のことなどで「不安」は誰にでもあるものです。そして、その状態から逃れるために、色々なことを試してみるのも人間の一つの本能なのかもしれません。
しかし、その状態から離れられるよう気を紛らわせてみたり、一時的に逃げてみたとしても、それは一過性の対処法に過ぎません。
それよりも、たとえ心に不安や苦しみが生まれたとしても、常に立ち戻ることのできる普遍的な心のありようを知って、その境地にいつでも戻れる状態を育んでいくことができれば、一時的な感情に振り回されることもなくなります。
このように、自他の分離状態から離れて、全て「つながっている」安心した状態を取り戻すためにも、瞑想や鎮魂法など自分に合った方法を試してみるのが良いでしょう。
また、これらの方法はやや敷居が高いと感じられる方は、細々とした日常のルーティーン、掃除や散歩、自然と触れ合うなど何でも良いので、無心になれる瞬間をもたらしてくれるものを見つけて実践するところから始めてみてはいかがでしょうか。
「自己」という認識を超えた先にある、無限の可能性に満ち溢れた世界。
ぜひ、その大元に繋がる感覚を、身近な日常生活の中から少しずつでも掴む体験を重ねてみていただけたらと思います。
――――
いかがでしたでしょうか。
私たちは一人ひとりが肉体を持って
生きているために、
個々はそれぞれ別々の存在で、
自己と他者は分けられている
という前提で生きている方も
多いのではないかと思います。
しかし、それはあくまでも肉体
レベルの話であって、
心の深い部分や意識レベルにおいては、
「全てが一つで繋がっている」としたら。
自己認識や他者に対する見方や捉え方が
大きく変わって、日常の中で体験する
出来事の一つひとつが、かつてないほど
新鮮で豊かなものへと変わっていくこと
でしょう。
そんな「新しい世界の見方」を
手に入れるためにも、日常の中で没頭
できることに取り組んだり、ひたすら
無心になれる時間を積極的に増やして
いきたいですね。
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