小学生の頃、
「自由帳」が大好きだった。
ジャポニカ学習帳の、あの自由帳だ。
学ぶべきものを指示する
何の線も入っていない、
あのまっさらな、白無地の紙。
自由帳をパラパラめくっていると
心底、ワクワクした。
なぜワクワクしたのか?
と問われれば、
繰り返しになってしまうが、
それが何も書かれていない、
真っ白な本だからだ。
学習項目を次から次へと詰め込まれる
義務教育の只中にあって、
あの白さは「心のオアシス」だった。
ショウワノート株式会社「ジャポニカ学習帳自由帳」より
http://www.showa-note.co.jp/japonica/jiyuu/
あれ以上の白が、
あれ以上の自由が、あるだろうか?
そんな気分だった。
そして、あの自由帳で
自由な「学習」が促進されたかというと、
ジャポニカ学習帳には申し訳ないが、
ノーだった。
ご多分に漏れずといって良いのか、
自由帳であることをいいことに、
自由に漫画を描きまくっていた。
私は小学生の頃は漫画家を目指して
漫画ばかり描いていて、
通算20巻ほどのうち
自由帳は、たしか3巻あたりで
活躍していたように思う。
なぜ3巻だけ自由帳を使って、
それ以降は使わなくなってしまったのか、
それは分からない。
ただ確かなことは、
大人になった今も、真っ白な画面に
こうして文字を打ち込んでいくことに、
とてもわくわくしている、ということだ。
これがよくいわれる
「三つ子の魂百まで」というものなのか、
それは分からない。
ただ確かなことは、
この短い改行の仕方は明らかに、
誰かにメールを書く時の癖から来ている。
祓わなければならない。
さて、話を自由帳に戻したい。
自由帳は、なぜあそこまで
「自由」を感じさせるのだろうか?
自由帳の自由の秘密を、
紐解いてみたいのだ。
と念じた途端に、
その答えらしきものがスッと降りてきた。
言葉にするとは、すごいことだ。
再び、自由帳の自由の秘密に話を戻そう。
まず、その秘密は、
それが「ジャポニカ学習帳」であることに
あるのではないか。
つまり、ジャポニカ「学習帳」
と書いてあるのに、
その学習帳を開いたときに
学習に関する素材が何も書かれていない
という、あのギャップだ。
このギャップが、自由という
解放感につながっていた可能性は
十分に考えられないだろうか。
「学習帳」
という言葉が効いている格好だ。
そして、お待たせしました。
ジャポニカ学習自由帳の
一番のワクワクの秘密。
それは、
静かな確信をもって表紙に書かれている
「自由帳」
という
あの言葉ではないだろうか。
たとえばこれが、
表紙も自由帳という言葉も
何も無かったとしたら、
それは何の変哲もない
ただの白い紙の束だろう。
別段ワクワクしないし、
コピー用紙として使ってしまいそうだ。
逆にもしこれに
「漢字練習帳」と書いてあって
真っ白な紙が続いていたりしたら、
印刷会社のミスなのではないかという
疑念が拭えない中、
漢字を練習しつづけるハメになる。
そんな心境は、
自由ではないだろう。
そこで、思うのだ。
ワクワクを与えてくれていたのは
自由を感じさせてくれていたのは
延々と続く白い紙のほうではなく、
あの「自由帳」という
言葉であったに違いないと。
「ジャポニカ」
「学習帳」
「自由帳」
といった言葉が連動して
ワクワクを起動するスイッチとして、
あるいは真っ白な紙や自由を連想させるものとして
機能していたのではないかと。
言葉とは、すごいものだ。
何も書かれていない白紙にも成し得ないほどの自由を、
何よりも先んじて<創造>してしまっていたからだ。
最後に、
「ジャポニカ学習帳」が
なぜ「ジャポニカ学習帳」と呼ばれるのか?
についてであるが、
学習帳が売れないことに困っていた
文具メーカーのショウワノートは、
1970(昭和45)年当時、
家にあるとステータスとされるほど
高価であった「百科事典」に目をつけて、
小学館の「百科辞典ジャポニカ」と提携した
「ジャポニカ学習帳」を作った結果、
CM効果などもあり、
売り上げが伸びていったということだ。
と、ここまで書いて
そんなことよりも
大事なことに気づいてしまった。
先ほど「祓わなければならない」と言った、
誰かに何かを伝えようと
メールを書くときのような
短く改行をする癖が、
まったく祓われていないことに。
ただ、
日本に古くから伝わる
「祓い」というだけあって
見た目には何も変わって
いないように見えても、
本当に大切なことが
見えてくることがある。
「ジャポニカ学習帳」の表紙の
あの昆虫の写真を長年撮影されてきた
昆虫植物写真家の山口進さんが、
つい先日、帰幽された。
このメールのような改行の仕方はつまり、
「ジャポニカ学習帳」という言葉の
代名詞ともいえるあの写真を通して
当時子どもだった私たちに
何か大切なことを伝えようと
されてきた山口さんに
何かを伝え返したいと
思ったからなのだろうか。
あるいは、山口さんは
NHKの自然番組「ダーウィンが来た!」の
撮影や出演にも尽力されてきたということで、
この番組が大好きだったという、
祓い、鎮魂、言霊をはじめ
日本古来の叡智を授けてくださった
七澤賢治先生に
何かを伝えたかったから
なのかもしれない。
それはきっと、
人に感謝を伝えるときの
あの言葉に違いない。
そしてきっと言葉は、
誰かに何かを伝えるためにあるのだ。
この世界が「神」という名の言葉から
生まれたとするならば、
神は私たちに、
一体何を伝えたがっているのだろうか。
おそらくは
その言葉に耳を傾けることが、
本当の意味で人を自由にする。
つまり「自由」とは
その文字のとおり、
自らの由来するところにこそ、
あるはずなのだから。
ーーーー
いかがでしたでしょうか。
小学生の頃の浅子さんが自由帳を手に
した時のワクワク感、
そして何も書かれていない「真っ白」な
ノートだからこそ、ここから新しい何か
が始まるような感覚をもたらしてくれる
とても新鮮で、心洗われるような文章!
読んでいるだけで心が自由に、
ふわりと軽く、見えない枠から解き放た
れたような気持ちになりました^^
言葉の力って本当にすごい!と感心します。
多くの人が心の底で自由を望みながらも、
社会的な制約や立場、あるいは過去の
思い込みや現実的なしがらみなどから、
「自由は難しい」
「今の自分は自由な生活とは程遠い」
と、無意識に思い込んでしまうことも
あるかもしれません。
しかし、浅子さんのようにノートをうまく
活用したり、言葉の捉え方を180度転換
することができれば、今この瞬間からでも
心の中に自分だけのオアシスを
創造することができるはず。
そこには、これまでは
見えなかった自由の地平線が
まるで一筋の希望の光となって、
無限大に広がっていることでしょう。
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