「扉」を壁と捉えるか、可能性と捉えるかで未来が変わる!?
石原さん;
「扉」は、人によってはただの壁に見えてしまうこともあると思うんです。勇気をもって開いてみたらこれまでとは違った別世界に行けるかもしれないという前向きな出会い方がある一方で、「扉」=「ただの壁」と認識してしまうこともあると。でも本作では、多くの無意識にふれるようなかたちで、扉=ひとつの可能性というふうに、前向きなメッセージとして、気づきを与えてくれたような気がします。
私はそういうものが、今でも日本の文化の中には生きている、と思っているんですね。
内海さん;
そうですね。今回の映画は日本の民俗学、民俗の俗は柳田國男さんや折口信夫さんだとか、そういう方々がおっしゃっていた、いわゆる日本の精神文化というものを、非常にうまく表現されていたと思います。たとえば、「常世(とこよ)」というキーワードがそうでしょうし、「後戸(うしろど)」っていうのも、縄文由来の、昔の近世の能楽の概念になりますから。
日本的な、そういう民俗学的な、あるいは、さっき仰ったような日本神話的なものを、かなり踏み込んで描かれたな、と思うんです。石原さんはその辺りに対して、どのように受け止められたのでしょう?
石原さん;
結局、「常世」というのは、ある面、死者の国なんですね。そういう表現も少し出てきましたけれども。文字通り「常世」は、ずっとある世界といいますかね。時間と空間を超えた世界というのがあって、そこに行くと亡くなった方に会えると。今生きている私たちには会えるはずのない過去の存在に会えるという、そういう世界が存在しているということを描いているな、と感じました。
今は、「時間とは何か?」というテーマが、物理学なんかでもテーマになっていて非常に興味のあるところですけども。要は、時間の矢といって、古典力学と古典物理学の過去・現在・未来っていう方向でこれまで語られてきたことが、それだけではないのではないかと。様々な時間軸が存在しているということを、実は、日本の文化って昔から知っていたと思うんですね。
そういうふうに、時間の概念が変わったときに、私たちの中で新しい世界が立ち上がる。それは一旦失ってしまったものかもしれない。それは死者であり、過去生きていた自分にとって大切な人なのかもしれない。そういう世界と繋がる、取り戻すきっかけを掴めたなら、そこから何かが変わると思うんですね。
石原さん:
どうしようもない過去って、きっと誰もが抱えていますよね。震災で大切な人を亡くしてしまったとか、そういうことでなかったとしても。
たとえば、あの時ああいう選択をすれば良かったとか。あそこでもっとこうしておけばよかったとか。皆それぞれ、色々な思いを抱えながら生きている。
でも、たとえ、そういう思いがあったとしても、もう一回取り戻せるっていいますかね。別の形で、その後悔や苦しみをきれいにして、そこから新しいエネルギーに変えることができるんですね。そこが、今回のこういう映画で、大きなきっかけやひとつの希望となるのではないか。そんな気がしています。
『すずめの戸締り』の中でも重要な鍵を握る、祝詞とは?
内海さん;
そうですね。ちょうど主人公の宗像草太が、後戸を戸を閉じる時に、祝詞を上げるシーンがあるじゃないですか。
石原さん;
そうですね。
内海さん;
祝詞は、唱えたりとか、日常的に接している方は稀で、ほとんどいらっしゃらないかもしれませんけれど、例えば、七五三との時とか、神前で結婚式を挙げる時とか、或いはお正月とかに、どこかしらで聞いたことがあるという方は多いですよね。草太が上げる祝詞に「かけまくも畏き」というのがありましたが、なんかどことなく懐かしい感じってあると思うんですよ。
祝詞は七五三や神前結婚式というお祝い事でなくても、亡くなった方への、色んな思いに対して唱える、ということもあると思いますし。
もう一つは、今現在生きている自分の、神道用語でいう「祓い」というのがあると思うんですけれども。私たちは生きていると思い通りになることばかりではなく、むしろ、うまくいかないことも結構あると思うんです。そういう中で、心に湧き起こってくる色々な感情であったり、積み重なったものやイライラしたもの、憎たらしいとか、なんでこんなことが起こるんだ、という思いが出てくると思うんですけれども。「祓い」も祝詞なので、そういう思いに対して使うこともできるのですよね?
石原さん;
そうですね。よく日本語って主語や目的語とかが不明瞭だとか色々と言われていますけれども。構造的に、自他の区別がすごく薄い言語なので、災害なんかが起こっても自然に助け合うことができるんですよね。
諸外国だったら、まず軍隊がザーと行って略奪が起きないようにザーっと人垣を作った上で、食料を配給する、というようなことがありますが。日本ではそういうことが起こらない。それは、ある面では、その辺りの仕切りが薄い、淡い世界っていうところがあってですね。
それが実は、日本語と、あとはいわゆる日本語って私たちが言っているものの奥にあるエネルギーといいますかね。
ですから、そのあたりのエネルギーの部分にフォーカスできるようになってくると、その辺りのメカニズムがだんだん見えてくるようになると思います。
内海さん;
そうですね。
石原さん;
そういう意味では、自分という一人の人間の中にも、ある面では、絶えず地震が起き続けているともいえるわけで。外側の現象に振り回されて感情が乱れてしまったり、穏やかな波が荒波に変わったりする。
映画に話を戻すと、「後戸」からビヨーンと出て来て、あまり言うとネタバレになってしまうので控えておきますが、今まさに飛び出そうとしているものがあるわけで。
でも、それを単に押し込めるのではなく、いい意味で解消して、自然に閉じて。あるいは交流していくということができるんだ、っていうことですよね。
内海さん;
そうですよね。今、エネルギーってことを仰ったので、そのことについてもぜひ伺ってみたいのですが…。
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いかがでしたでしょうか?
映画『すずめの戸締まり』の主人公、宗像草太が唱えた祝詞が、神道の「祓い」につながるお話、さらにその奥に秘められた日本語の秘密など、改めて本作には、日本文化を読み解く上で重要なキーワードや概念が散りばめられていることが、見えてきたのではないでしょうか。
その上で、石原さんの「後悔や苦しみをきれいにして、そこから新しいエネルギーに変える」という言葉の意味を受け止めてみると、映画の見方がいっそう深く、味わい深いものとなるかも知れません。
では、その「エネルギー」とはいったい何なのでしょうか?
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その謎が解き明かされるかも知れない!?次回もどうぞお楽しみに。
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